「リヒテンシュタイン」展 2 [ART]
「ホロフェルネスの首を持つユディト」
(クリストファーノ・アッローリ/1613年)
聖書や神話に作品の主題を求めると、残忍な描写に出くわすことも少なくない。
ローマ神話の「我が子を食らうサトゥルヌス」しかり、ギリシア神話の「皮を剥がされるマルシュアス」しかりである。
旧約聖書の外典を主題とする本作もこの類いであり、今回のコレクションでこそ異彩を放っているものの、モティーフそのものは決して珍しいものではない。
「我が子を食らうサトゥルヌス」 ゴヤ (左) 「アポローンとマルシュアース」 ホセ・デ・リベーラ
(注)いずれも本展出品作ではありません
ベトリアに住む寡婦ユディトは、町がホロフェルネス率いる軍勢に包囲され窮地に陥ると、一計を案じて敵軍へと潜入する。ある日、天幕の内に残されたユディトは、油断して眠る敵将の首を切り落とし、侍女と共にベトリアへと戻る。これを機に形勢は逆転し、敵を討ち破った、というのが物語のあらましである。
この作品でまず目を奪われるのは、やはりユディトの手にした生首であろう。
気の昂ぶりによるものか、微かに紅がさしたユディトの顔色と、もはや血の気を失った生首とのコントラストが、なんとも不気味なリアリティを醸し出す。
さらに私が違和感を覚えたのは、ユディトの視線である。
多くの場合、物語の一場面を描写する画家の立ち位置はその場にはない第三者のそれであり、特別な意図がある場合を除けば、鑑賞者と登場人物の視線が絡むことはまずない。
にも拘らず、彼女の視線は明らかにカンバスの前に立つ人物にフォーカスされているのである。
参考までに、有名どころによる同じモティーフの作品をいくつかご紹介しよう。
ただし、クラナッハ作品の妖しい視線は、画家の立ち位置云々を超越した“クラナッハオリジナル”とも言うべきものであり、特異な例とお考えいただきたい。
作者は左からボッティチェリ、カラヴァッジョ、クラナッハ
(注)いずれも本展出品作ではありません
図録の解説などによると、どうやら画家アッローリはユディトのモデルを務めた女性に想いを寄せており、自らを生首に見立てることにより、その叶わぬ恋の有り様を表現しているらしい。
どれほどの絶望的な事情があったかは知らぬが、自らを生首に見立てるとは、いささか大仰に過ぎはしないだろうか。
澁澤龍彦の著書『エロティシズム』に、ある性倒錯に触れてこんな記述がある。
「マゾヒズムは本質的に自己愛(ナルシシズム)的な欲望、受動的な快楽である。(中略)また、他人(あるいは自分)の攻撃に身をさらし、自分の苦悩を大ぜいの人に見てもらいたいという欲望は、一種のエキジビショニズム(露出狂)と容易に結びつく。いわば自分が悲劇の主人公になり、周囲の見物人に対して、自分の運命をドラマティックに見せびらかすわけである。」
アッローリの人となり、あるいは彼とモデルの女性との事情が詳らかではないため、たった一枚の絵をもって画家に“マゾヒスト”ないし“ナルシスト”のレッテルを貼ってしまうのは短絡に過ぎようが、ただ、こうした観点からこの絵を眺めると、ユディトの憐れむような眼差しや、自身を生首に見立てた画家の大仰さに合点が行くのもまた確かである。
さらに、仮にアッローリが自らに断頭という罰を科すべくこのモティーフを選んだのであれば、それはまた「道徳的マゾヒスト(※1)は、(中略)何らかの無意識的な罪悪感を持っている人間であり、罰への欲求によって動かされている。」との別の一節とも符合するのである。
むろん私は、これらの見解をもって画家の名誉を貶めるつもりは毛頭ない。
心理学者の岸田秀氏は「性器から分離したリビドーの一つの運命が性倒錯である。それはまた、別の運命をも辿りうる。芸術の源泉もそこにあるのかもしれない。」と述べている。(※2)
ここに言う「別の運命」とは、なにも性倒錯と芸術とを決して交わらざる別個の事象として位置付けようというのではない。むしろ、両者とも「性器から分離したリビドー」であるという本質論にこそ着目すべきであり、私の論点もまさにここにあるのである。
性倒錯のエネルギーは、往々にして芸術家の創作活動に干渉し、優れた作品を生み出す原動力たり得るのである。
※1 「道徳的マゾヒズム」はフロイトの分類によるマゾヒズムの一形態。一種の心理的マゾヒズム。
この他に「性愛的マゾヒズム」「女性的マゾヒズム」がある。
※2 岸田秀「性の倒錯とタブー」(澁澤龍彦編「エロティシズム(上)」所収)より
リヒテンシュタイン展
http://www.asahi.com/event/liechtenstein2012-13/
※同じタイトルだが、「著書」と「編書」の違いがあるのでご注意
[更新履歴]
'13.06 表現の一部修正
(クリストファーノ・アッローリ/1613年)
聖書や神話に作品の主題を求めると、残忍な描写に出くわすことも少なくない。
ローマ神話の「我が子を食らうサトゥルヌス」しかり、ギリシア神話の「皮を剥がされるマルシュアス」しかりである。
旧約聖書の外典を主題とする本作もこの類いであり、今回のコレクションでこそ異彩を放っているものの、モティーフそのものは決して珍しいものではない。
「我が子を食らうサトゥルヌス」 ゴヤ (左) 「アポローンとマルシュアース」 ホセ・デ・リベーラ
(注)いずれも本展出品作ではありません
ベトリアに住む寡婦ユディトは、町がホロフェルネス率いる軍勢に包囲され窮地に陥ると、一計を案じて敵軍へと潜入する。ある日、天幕の内に残されたユディトは、油断して眠る敵将の首を切り落とし、侍女と共にベトリアへと戻る。これを機に形勢は逆転し、敵を討ち破った、というのが物語のあらましである。
この作品でまず目を奪われるのは、やはりユディトの手にした生首であろう。
気の昂ぶりによるものか、微かに紅がさしたユディトの顔色と、もはや血の気を失った生首とのコントラストが、なんとも不気味なリアリティを醸し出す。
さらに私が違和感を覚えたのは、ユディトの視線である。
多くの場合、物語の一場面を描写する画家の立ち位置はその場にはない第三者のそれであり、特別な意図がある場合を除けば、鑑賞者と登場人物の視線が絡むことはまずない。
にも拘らず、彼女の視線は明らかにカンバスの前に立つ人物にフォーカスされているのである。
参考までに、有名どころによる同じモティーフの作品をいくつかご紹介しよう。
ただし、クラナッハ作品の妖しい視線は、画家の立ち位置云々を超越した“クラナッハオリジナル”とも言うべきものであり、特異な例とお考えいただきたい。
作者は左からボッティチェリ、カラヴァッジョ、クラナッハ
(注)いずれも本展出品作ではありません
図録の解説などによると、どうやら画家アッローリはユディトのモデルを務めた女性に想いを寄せており、自らを生首に見立てることにより、その叶わぬ恋の有り様を表現しているらしい。
どれほどの絶望的な事情があったかは知らぬが、自らを生首に見立てるとは、いささか大仰に過ぎはしないだろうか。
澁澤龍彦の著書『エロティシズム』に、ある性倒錯に触れてこんな記述がある。
「マゾヒズムは本質的に自己愛(ナルシシズム)的な欲望、受動的な快楽である。(中略)また、他人(あるいは自分)の攻撃に身をさらし、自分の苦悩を大ぜいの人に見てもらいたいという欲望は、一種のエキジビショニズム(露出狂)と容易に結びつく。いわば自分が悲劇の主人公になり、周囲の見物人に対して、自分の運命をドラマティックに見せびらかすわけである。」
アッローリの人となり、あるいは彼とモデルの女性との事情が詳らかではないため、たった一枚の絵をもって画家に“マゾヒスト”ないし“ナルシスト”のレッテルを貼ってしまうのは短絡に過ぎようが、ただ、こうした観点からこの絵を眺めると、ユディトの憐れむような眼差しや、自身を生首に見立てた画家の大仰さに合点が行くのもまた確かである。
さらに、仮にアッローリが自らに断頭という罰を科すべくこのモティーフを選んだのであれば、それはまた「道徳的マゾヒスト(※1)は、(中略)何らかの無意識的な罪悪感を持っている人間であり、罰への欲求によって動かされている。」との別の一節とも符合するのである。
むろん私は、これらの見解をもって画家の名誉を貶めるつもりは毛頭ない。
心理学者の岸田秀氏は「性器から分離したリビドーの一つの運命が性倒錯である。それはまた、別の運命をも辿りうる。芸術の源泉もそこにあるのかもしれない。」と述べている。(※2)
ここに言う「別の運命」とは、なにも性倒錯と芸術とを決して交わらざる別個の事象として位置付けようというのではない。むしろ、両者とも「性器から分離したリビドー」であるという本質論にこそ着目すべきであり、私の論点もまさにここにあるのである。
性倒錯のエネルギーは、往々にして芸術家の創作活動に干渉し、優れた作品を生み出す原動力たり得るのである。
※1 「道徳的マゾヒズム」はフロイトの分類によるマゾヒズムの一形態。一種の心理的マゾヒズム。
この他に「性愛的マゾヒズム」「女性的マゾヒズム」がある。
※2 岸田秀「性の倒錯とタブー」(澁澤龍彦編「エロティシズム(上)」所収)より
リヒテンシュタイン展
http://www.asahi.com/event/liechtenstein2012-13/
※同じタイトルだが、「著書」と「編書」の違いがあるのでご注意
[更新履歴]
'13.06 表現の一部修正
2012-12-02 20:35
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