「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾×村上春樹 4 [BOOK]
※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。
本書は概ね六つの章から成っているが、うち一章は、その怪しさ(ばかりではないが…)が人々を魅了して止まないマーラーについて割かれている。
そも、書店で何気なく手に取った時点でまったく買うつもりなどなかった分厚い新刊書が、ほんの数分後に帰りの荷物に加わっていた一番の理由がここにあった。
まずもって収穫だったのは、実はマーラーは小澤氏のレパートリーとしてポピュラーであり、また、氏が総監督を務めるサイトウ・キネン・オーケストラが、我が国オケではマーラー演奏の先駆けであるという事実を知ることができたことである。
加えて、氏のマーラーに対する姿勢にも、新鮮な驚きがあった。
マーラーについては、ユダヤ人というその出自と、時に“分裂気質”とか“カオス”などとも評される独特の作風から、村上氏も指摘するように「マーラーその人の生涯とか、世界観とか、時代背景とか、世紀末的な省察とか」といった側面からのアプローチを試みるのが、楽曲解釈論としては一般的であろう。
しかし、この点について小澤氏に質すと、「僕はそんなには考えないかもしれない」との答えが返ってくるのであった。
誰もマーラーたり得ぬ以上、聴く側としては民族性や境遇の近い者を以って“翻訳者”の任を負わそうと考えるのが自然であり、同じくユダヤの系譜を辿るワルターやバーンスタインらの人気が高いのは至極もっともである。
音楽評論家である宇野功芳氏の「前者は弟子として、後者は使徒として、彼の音楽に激しく共感した(※)」との言には説得力があったし、事実、彼等の演奏には名状し難い迫力がある。
しかし、小澤氏は言う。
「僕はね、音楽を勉強するときには、楽譜に相当深く集中します。だからそのぶん、というか、ほかのことってあまり考えないんだ。(中略)自分と音楽とのあいだにあるものだけを頼るというか…」
もちろん、本来あるべき一つの姿勢ではあると思うが、バーンスタインがマーラーに取り組むプロセスをアシスタントとして共有し、そのマーラーへの情熱を身を以って感受して来た小澤氏が採る方法としては、ちょっと意外な気がしないでもない。
あるいは、だからこその帰結と捉えるべきであろうか…
マーラーの作品は、楽譜の指示が細かい―すなわち演奏者の自由に任されている余地が少ない―にも拘らず、その実、演奏者によって非常に多彩な表情を見せるというパラドキシカルな側面を有する。
村上氏はこれを「意識的情報が溢れている分、選択肢がより潜在化していく」と表現し、実はこの特異性が、マーラーと出自を異にする演奏家にとって幸いしているのではないかと考察している。
私なりに解釈すると、つまり、スコア上の指示が事細かであることにより民族性などのアドバンテージが抑制される一方で、いわゆる文学で言うところの“行間”での解釈や表現はむしろ活性化し、ここに多様な価値観の介入する余地が残されている、ということのようである。
前稿のバックハウスにせよ、今回のワルター、バーンスタインにせよ、どうも嗜好に保守的な嫌いのある私にとってはたいへん興味深い考察であり、結果的にマーラーの新たな楽しみ方を教示される形となった。
マーラーについてはまだまだ書き足りないところだが、それでは本稿のテーマから外れてしまう。今回はこの辺りにして、本書を読み通しての素朴な感想を…
いずれも世界をフィールドに活躍する大物同士の、クラシックに関する少々マニアックな対談である。時折り、小澤氏の“感性”と村上氏の“論理”が交錯する場面も見られるが、その周囲には一貫して長閑な空気が漂っている。
これは、本書が発行されるに至った経緯が、ビッグネーム二人による対談企画まずありきだったのではなく、両氏の日頃の付き合いの中から自然発生的に生まれたものであったということが大きい。
互いに対する敬意と共に親密さも感じられ、読んでいて心地良い一冊であった。
小澤 (果物を食べる)「うん、これはおいしいね。マンゴ?」
村上 「パパイヤです」
(おわり)
※ 「新版 クラシックCDの名盤」(宇野功芳ほか共著)より
<追記>
先日、小澤氏の体調不良に伴う一年間の活動休止が発表された。ご快癒を切に祈るものである。
本書は概ね六つの章から成っているが、うち一章は、その怪しさ(ばかりではないが…)が人々を魅了して止まないマーラーについて割かれている。
そも、書店で何気なく手に取った時点でまったく買うつもりなどなかった分厚い新刊書が、ほんの数分後に帰りの荷物に加わっていた一番の理由がここにあった。
まずもって収穫だったのは、実はマーラーは小澤氏のレパートリーとしてポピュラーであり、また、氏が総監督を務めるサイトウ・キネン・オーケストラが、我が国オケではマーラー演奏の先駆けであるという事実を知ることができたことである。
加えて、氏のマーラーに対する姿勢にも、新鮮な驚きがあった。
マーラーについては、ユダヤ人というその出自と、時に“分裂気質”とか“カオス”などとも評される独特の作風から、村上氏も指摘するように「マーラーその人の生涯とか、世界観とか、時代背景とか、世紀末的な省察とか」といった側面からのアプローチを試みるのが、楽曲解釈論としては一般的であろう。
しかし、この点について小澤氏に質すと、「僕はそんなには考えないかもしれない」との答えが返ってくるのであった。
誰もマーラーたり得ぬ以上、聴く側としては民族性や境遇の近い者を以って“翻訳者”の任を負わそうと考えるのが自然であり、同じくユダヤの系譜を辿るワルターやバーンスタインらの人気が高いのは至極もっともである。
音楽評論家である宇野功芳氏の「前者は弟子として、後者は使徒として、彼の音楽に激しく共感した(※)」との言には説得力があったし、事実、彼等の演奏には名状し難い迫力がある。
しかし、小澤氏は言う。
「僕はね、音楽を勉強するときには、楽譜に相当深く集中します。だからそのぶん、というか、ほかのことってあまり考えないんだ。(中略)自分と音楽とのあいだにあるものだけを頼るというか…」
もちろん、本来あるべき一つの姿勢ではあると思うが、バーンスタインがマーラーに取り組むプロセスをアシスタントとして共有し、そのマーラーへの情熱を身を以って感受して来た小澤氏が採る方法としては、ちょっと意外な気がしないでもない。
あるいは、だからこその帰結と捉えるべきであろうか…
マーラーの作品は、楽譜の指示が細かい―すなわち演奏者の自由に任されている余地が少ない―にも拘らず、その実、演奏者によって非常に多彩な表情を見せるというパラドキシカルな側面を有する。
村上氏はこれを「意識的情報が溢れている分、選択肢がより潜在化していく」と表現し、実はこの特異性が、マーラーと出自を異にする演奏家にとって幸いしているのではないかと考察している。
私なりに解釈すると、つまり、スコア上の指示が事細かであることにより民族性などのアドバンテージが抑制される一方で、いわゆる文学で言うところの“行間”での解釈や表現はむしろ活性化し、ここに多様な価値観の介入する余地が残されている、ということのようである。
前稿のバックハウスにせよ、今回のワルター、バーンスタインにせよ、どうも嗜好に保守的な嫌いのある私にとってはたいへん興味深い考察であり、結果的にマーラーの新たな楽しみ方を教示される形となった。
マーラーについてはまだまだ書き足りないところだが、それでは本稿のテーマから外れてしまう。今回はこの辺りにして、本書を読み通しての素朴な感想を…
いずれも世界をフィールドに活躍する大物同士の、クラシックに関する少々マニアックな対談である。時折り、小澤氏の“感性”と村上氏の“論理”が交錯する場面も見られるが、その周囲には一貫して長閑な空気が漂っている。
これは、本書が発行されるに至った経緯が、ビッグネーム二人による対談企画まずありきだったのではなく、両氏の日頃の付き合いの中から自然発生的に生まれたものであったということが大きい。
互いに対する敬意と共に親密さも感じられ、読んでいて心地良い一冊であった。
小澤 (果物を食べる)「うん、これはおいしいね。マンゴ?」
村上 「パパイヤです」
(おわり)
※ 「新版 クラシックCDの名盤」(宇野功芳ほか共著)より
<追記>
先日、小澤氏の体調不良に伴う一年間の活動休止が発表された。ご快癒を切に祈るものである。
2012-03-17 19:55
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