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「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾×村上春樹 3 [CLASSIC]

※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。

ところで、楽譜を読むことへの憧憬を、村上氏は「翻訳ではなく原書で文学を読むことのできる楽しさ、自由さと、少しは似ているかもしれない」と表現している。
数々の翻訳を手懸ける氏ならではの、的を射た比喩といえよう。
であるならば、私を含め楽譜の解釈が敵わぬ多くのクラシックファンは、それぞれに“良き翻訳者”と巡り会うことが必要となる。
氏が言うところの「ややこしい暗号のような、過去からのメッセージ」を読み解き、原作者たる作曲家の思想や情念の一端を、凡庸ならざる表現力をもって我々に提示してくれる翻訳者こそが、指揮者であり、ソリストであり、オーケストラなのである。


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実は私の手元には、先に紹介したディスク(前稿参照)の他に、バックハウスによる『ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集』というものがある。
普段は楽曲ごとに演奏者を選っている私が全集盤を所有するに至ったのも、私にとってはバックハウスこそが、ベートーヴェンのピアノ楽曲における“良き翻訳者”であるからに他ならない。
と言っても、むろん私に村上氏のごとき優れた“素養”の裏付けがあるはずもなく、その傑出したテクニックに対する高い評価と、ベートーヴェン直系の弟子という“血統”への絶対的な信頼感という、極めて明快かつ保守的な理由によるものである。
クラシックに傾倒して間もなく、『ベートーヴェン 三大ピアノソナタ集』を介して出逢ったバックハウスは、いわば雛鳥にあっての“刷り込み”のごとくに私の価値観を支配し、ベートーヴェンのピアノ楽曲におけるスタンダードとなったのであった。


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さて、ここまで書いた以上、バックハウスによる3番コンチェルトについても触れぬわけにはいくまい。
序奏部、まずはウィーン・フィルの「ドイツ的」な演奏に誘なわれ、我々は緑濃き深山(みやま)へと分け入る。
バックハウスは、その先に待つ。
齢七十四とは思えぬその瑞々しいタッチには、およそ“老練”などという言葉は似合わず、ことに第1楽章のカデンツァでは、山間のせせらぎを時折り若魚が跳ねるがごとき煌めきを放つ。
しかしその実、楽曲を通したテンポはイッセルシュテットにより巧みにコントロールされており、驚くことに、躍動感溢れる第1楽章は先のグールド(前稿参照)より遅く、情感豊けく弾き上げる第2楽章はグールドよりも速い。
つまり、ゼルキンとバーンスタインによる演奏とは最も離れたところに位置しており、ことテンポに関する限り、やはりお二方の演奏は極端に過ぎると言わざるを得ない。
ただし、あくまでも一バックハウスファンの感想であり、“聴きめ”には個人差があるので、ご了承のほど…

                                (つづく)

ベートーヴェン : ピアノ協奏曲全集 (新リマスタリング)

ベートーヴェン : ピアノ協奏曲全集 (新リマスタリング)

  • アーティスト: バックハウス(ウィルヘルム),シュミット=イッセルシュテット(ハンス),ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ポリドール
  • 発売日: 1999/04/22
  • メディア: CD


小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤征爾さんと、音楽について話をする

  • 作者: 小澤征爾・村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11/30
  • メディア: 単行本

[晴れ]

[更新履歴]
'12.11 表現の一部修正

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾×村上春樹 2 [CLASSIC]

※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。

今回と次回の記事は、その内容から「CLASSIC」カテでの分類となっていることを、まずお断りしておく。

第1章では、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」について、6枚ものディスク(別掲)を聴き比べている。
かつての村上少年にクラシック音楽への扉を開かせたという、たいへん意義深い楽曲である。
私の手元にも何枚かあったはずなので、早速探してみた。
本書を読んだ印象では、グールド/バーンスタイン盤と内田光子/ザンデルリンク盤に興味を引かれていたのだが、見付かったのはグールド/カラヤン盤にゼルキン/バーンスタイン盤。
うーん、惜しい![ふらふら]

何はさておき、まずはグールド/カラヤン盤から聴く。
前稿で触れたように、村上氏はここでグールドとベルリン・フィルとの不調和を指摘しており、これには小澤氏も同調している。
さほどの注意は払わなかったとはいえ、これまで聴いてきた限りでは、違和感を持ったことなど一度としてなかった。
今、あらためて聴いてみても、特に不自然さは感じない。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番&シベリウス:交響曲第5番

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番&シベリウス:交響曲第5番

  • アーティスト: カラヤン(ヘルベルト・フォン),グールド(グレン),ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2008/05/21
  • メディア: CD


第1楽章ばかりを何回か繰り返し、後に紹介する他の演奏とも聴き比べてようやく若干の違いを見出すに至ったものの、私ごときの“素養”では、全く以ってこれを不調和とは認識できない。
ソロとオーケストラとの絡みの問題なので一概には言えないが、アーティキュレーションに多少“やんちゃ”なアレンジを加えるソリストとの共演などでは、間々あることではないのか。
いや、むしろあのカラヤンとベルリン・フィルを向こうに回し地を貫いたというのであれば、小澤氏が「自由な音楽」と評するこの若きピアニストの心意気や良しとの評価があって然るべきとも思うのだが…
そういえば、グールドはバーンスタインとブラームスを共演するにあたり、自身のゆっくりしたテンポでの演奏を譲らず、結果、本番前にバーンスタインが聴衆に向かってエクスキューズするに至ったというエピソードが紹介されていた。
グールドの、グールドたる所以であろう。

ふぅ…
しかし一曲聴くのに、これだけ集中力を要するとは…[がく~(落胆した顔)]
窓を開け、部屋の空気を入れ替える。
オーバーヒート寸前の頭をしばらく冷気に晒し、気分も新たにゼルキン/バーンスタイン盤に取り掛かる。
が、これがまた曲者であった。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番+第5番「皇帝」

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番+第5番「皇帝」

  • アーティスト: ゼルキン(ルドルフ),バーンスタイン(レナード),ニューヨーク・フィルハーモニック
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2001/12/19
  • メディア: CD


のっけから小澤氏を「ええええ」と驚愕させるほどの速いテンポで、第1楽章は幕を開ける。このオーケストラの勢いは、そのままゼルキンのピアノに引き継がれる。
単純に第1楽章の演奏時間を比べてみても、先程のグールド盤が16'15" であるのに対し、ゼルキン盤は15'32"と40秒ほど短い。
その理由については、当時流行っていた古楽器演奏の影響があるのではないかと小澤氏は推測する。
そして、このようなスタイルを以って「非ドイツ的」とも評しており、アメリカのオーケストラ(ここではニューヨーク・フィル)をベルリン・フィルやウィーン・フィルと対比させていて興味深い。
しかし、(本書では取り上げられていないが)実は第2楽章になると、グールド盤が9'25"にゼルキン盤10'54"と、その演奏時間は大きく逆転する。
本来の指示が、第1楽章はAllegro con brio(活気をもって、速く)、第2楽章がLargo(遅く、ゆったりと)であることを考えれば、ゼルキン盤の方がよりスコアに忠実と言えなくもないが、ただ、こうなると第1楽章のスピードは流行りのスタイルというだけでは説明がつかない。
ゼルキンおよびバーンスタインの、積極的な意図を感じるところである。
                                (つづく)

※ 本書で試聴している「ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番」
・グールド/カラヤン盤
・グールド/バーンスタイン盤
・ゼルキン/バーンスタイン盤
・インマゼール/ヴァイル盤
・ゼルキン/小澤征爾盤
・内田光子/ザンデルリンク盤


小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤征爾さんと、音楽について話をする

  • 作者: 小澤征爾・村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11/30
  • メディア: 単行本

[曇り]

ワーグナーの孫、リストのひ孫 [CLASSIC]

かつて、行きつけの店のスタッフだったH君が、現在は六本木の店でバーテンダーを務めているというので、近くまで行ったついでに顔を出してみた。
オープンの連絡をいただいてから、5ヶ月目という非礼である。


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         (屋上テラス席からは、六本木の夜景が望める)


彼とは、趣味のジャンルが近かった。
前の店では、よく絵画の話もしたし、クラシックの話もした。
折りに触れ、私が彼に贈った物の多くは人文科学系の書籍であったし、彼からの、唯一のプレゼントは美術展の図録であった。

彼とは、趣味のジャンルは近かったが、好みまで近かったわけではない。
愛読書も違えば、お気に入りの画家も違っていた。
しかし、互いの好みを理解し、尊重した上での批評は、安易に迎合するありきたりの営業トークよりも刺激的で、むしろ、心地よかった。
前述のプレゼントが、互いの好みを斟酌していることは言うまでもない。

カウンターを間に差し向かうと、自然に在りし日と同じ時間が流れる。
簡単な近況報告の後は、話題は当然のように、共通の趣味の話に移っていた。
この時は、前日にネットで見つけた、こんなトピックであった。

『ワーグナーの孫、ウォルフガング氏が死去』


「亡くなったことよりも、生きていたことの方が驚きですよね。」
“ワグネリアン” というほど思想的ではないが、ワーグナーの愛好者であるH君が言う。
まったく、その通りであった。
クラシック音楽史奔流の、はるか川上に位置していたはずの “大ワグネル” から、まだ3世代しか経っていなかったとは!

冷静に暦を辿れば、なんら不思議なことではない。
だいたい、オーケストラが存在する時点で、近代なのである。
しかし、昨今のデジタル音源に慣れてしまった耳には、愛蔵する H.クナッパーツブッシュ / VPO 盤の、時に “味わい” どころの騒ぎではないノイズに、遡及的に隔世の感を禁じえないのも事実である。




著名な作曲家や “巨匠” などと称される指揮者が、その影響力ゆえに戦渦や政渦に巻き込まれるケースは、少なくない。
時として、創作・演奏活動の休止や亡命をも余儀なくされる。
フルトヴェングラーの地位と名誉はナチスに翻弄され、独裁政権から逃れるように祖国を後にしたラフマニノフは、終(つい)に帰国の本懐叶わず、アメリカでその生涯を閉じることとなる。

ワーグナーも、例外ではない。
革命運動への参加を機に、逆賊とみなされた。
ドイツの作家、トーマス・マンの短篇『トリスタン』に、こんなシーンがある。
とある山村のサナトリウム。
「こんなことがあるだろうか……これはうそだ……」
ピアノが置かれた談話室で、ワーグナー―正確にはワグネルの “ワ” の字も出て来ないのであるが―の譜本を見つけたシュピネル氏は狼狽える。
「どうしてこんなものがここへ来ているのでしょうね。」
クレエテルヤアン夫人も、これに同調する。
「こんなもの」が、「ここ」にあってはならない…
著名な作曲家の代表作がかつて置かれていた不幸な境遇が、さりげなくも、如実に描かれている。


トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)

トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)

  • 作者: トーマス・マン
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1979/01
  • メディア: 文庫


ドイツ文学といえば、H君がワーグナーを聴くようになったのは、ゲーテの『ファウスト』がきっかけだったという。
同じくワーグナーを愛聴していながら、かの「ワルキューレの騎行」を、映画『地獄の黙示録』のオリジナルテーマだと思っていた私とは、月とスッポンである。

[晴れ]

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'11.10 モバイル端末での閲覧用に改行・編集

モーツァルト 「交響曲第40番」 [CLASSIC]

以前、何かのテレビ番組で、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏が、「人生の最後に聴きたい曲は?」とのインタビューに、ちょっと間をおいて、「モーツァルトの40番かな」と答えていた。
彼のキャラクターと相俟って、聞き様によってはキザに聞こえなくもないが、癌に侵されていることを公表し闘病中の身でもあっただけに、切実なリアリティが感じられたのも事実である。

かの小林秀雄が、若き日に道頓堀を歩いていると、俄かに「ト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴った」というエピソードは、かつての文学少年少女には存知のところであろうが、ここでいう「ト短調シンフォニイ」こそが、他でもない、交響曲第40番なのである。
このとき突然鳴ったという「テエマ」が、第1楽章でなく第4楽章のそれであったというところに、“神様”の“人間臭さ”が窺える。
もしも、モオニング娘。の曲が突然鳴っていたなら、きっと「シャボン玉」あたりだったに違いない。


モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)









「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」

モーツァルトについて、おそらく日本で最も有名なこの評言を遺したのもまた、かの人である。
秀逸なキャッチコピーとして、今でも十分に通用するであろうこの名文句に魅せられて、モーツァルトに触れた方も少なくあるまい。

誤解している向きも多いようだが、この評はなにも交響曲第40番に対して為されたわけではない。
その辺の話については次稿に“キー”を譲るものとするが、ただ、「疾走するかなしさ」との喩え自体は、交響曲第40番に対するものとしても、違和感なく受け入れられよう。
事実、モーツァルトは前の交響曲を仕上げた直後に最愛の娘を亡くしているが、それから一月も経たぬうちに、この曲を完成させているのである。
か細い絹糸のごときストリングスで織り上げられた第1楽章テーマの、あの艶やかな旋律の裏に、モーツァルトの気も狂わんばかりの慟哭を聞いた方もおられよう。
「モオツァルトのかなしさ」は、このシーンでも間違いなく五線譜を駆け抜けているのである。

件のインタビューを観て以来、自分が同様の質問をされた場合を考えている。
心穏やかに“その時”を迎えんがために、目下のところ、マーラーの交響曲第5番 [アダージェット] が最右翼だが、聴けば聴くほどに、この「ト短調シンフォニイ」は捨てがたい。

いずれを選ぶことになるにせよ、質問には“ちょっと間をおいて”から答えることにする。
ちょっとキザな、某ジャーナリストよろしく…


モーツァルト:交響曲第40番/第41番「ジュピター」

モーツァルト:交響曲第40番/第41番

  • アーティスト: カラヤン(ヘルベルト・フォン),ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

[晴れ]

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