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工場夜景クルーズ [Others]

数年前、突如として工場やプラントを愛好するブームが起きた。
メカ好きの男どもの独壇場かと思いきや、女性の愛好者も少なくない。
“工場萌え”なる言葉も生まれ、夜景クルーズなどは今なお静かなブームである。


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今回私が参加したのは、京浜工業地帯を小型船で巡るツアー。
横浜の大桟橋ふ頭から出発し、大師運河・塩浜運河などを90分で回る。
準備していたウィスキーの小瓶を尻ポケに、十数人の参加者と共に船に乗り込んだ。


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桟橋からプラント群までは少し離れているため、船はなかなかのスピードで進む。
時折り、波しぶきを礫のように打ち付けてくる強烈な海風も、日中の不快な湿り気が纏わり付いた肌には心地いい。

後方デッキの隅に陣取った私の真向いでは、立派なデジタル一眼を首から下げた二十代と思しき女性が、これまたごっつい三脚をガシャガシャと組み立てている。
こんな揺ら揺らと不安定な船から陸地の建造物を狙うのに、果たして三脚が役に立つのだろうか、いや、デジイチを手にして間もない私などが知るはずのない撮影テクがあるのだろうか…などと考えを巡らすうちに、武骨なプラントが聳える運河が近付いてきた。

船長は要所々々でスピードを落とし、私達が撮影しやすい環境を整えてくれる。
皆、ここぞとばかりに右へ左へ、あるいは艫へ舳先へと、撮影ポイントを求め忙しくデッキを動き回っている。
ポツンと置き去りにされたままの三脚には、この際触れないでおこう…


昼夜の別なく稼働し続ける大型機械や蒸留塔に、原料や燃料、あるいは水や蒸気等を輸送するため縦横に張り巡らされた配管、そしてこれらの設備を支える堅牢な鉄骨。
それらは、喩えるならば、鍛え抜かれたアスリートの筋肉と臓器であり、血管とリンパであり、骨骼なのであろう。


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そもそも工場照明とは、プラントとそこで働く人々の安全を守るための常夜灯に過ぎず、鑑賞用イルミネーションのような計算された美しさがあるわけではない。
しかしそれは、甚だ工業的ではあるが、生産活動という生命の営みを照らし続ける灯りであり、それゆえに工場夜景はかくも神々しいのである![ぴかぴか(新しい)]


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当初、90分もあれば十分だろうと思って選んだプランであったが、いざ出発してからはあっという間であった。
桟橋へと向かう船の前方には、先程までの工場夜景についての能書きなど軽く一蹴してしまう、“みなと横浜”の圧巻の夜景が広がっている。

ま、これもまた、甚だ経済的ではあるが、生産活動を照らす尊い灯りであることに変わりはない。
(^^;)

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※ 画像には昨夏撮影のものも含まれています。
[晴れ]

バラとナカイと、時々シブサワ… [Others]

川崎市の多摩丘陵にある「生田緑地 ばら苑」には、およそ533種、4700株もの薔薇が咲き乱れる。


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中井英夫の代表作『虚無への供物』には、かつて世田谷に実在した薔薇園「三宿ガーデン」についての記述がある。
また、『幻想博物館』所収の短編等に登場する、広大な薔薇園を持つ病院「流薔園(るそうえん)」は、千葉県市川市に実在する「式場病院」がそのモデルであるらしい(※1)。
私事で恐縮だが、実は三宿も市川も私には大変縁のある土地であり、氏の作品に触れるたび、薔薇園なるものには心惹かれていたのであった。

それにしても薔薇とは不思議な花で、その華麗で艶やかな容姿とは裏腹に、争いや死、あるいは秘密結社などと、とかく暗く怪しげなイメージが付きまとう。
私の経験上も、おそらく物心ついて初めて認識した薔薇のモティーフは、時代に翻弄される若者たちの愛と死を描いた『ベルサイユのばら』であったし、また、ほぼ時を同じくして目にしたコミック『血とばらの悪魔(※2)』も、およそ「KCなかよし」レーベルとは思われぬ奇怪なストーリーに、少なからず衝撃を受けたのであった。
さらに、『薔薇族』などという雑誌に象徴される深淵なる世界に至っては、…言わずもがなである。


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このように偏ったイメージが形成されるに至った理由は、むろん我々人間が薔薇と関わってきた歴史とも無縁ではなく、ヘレニズムのあたりまで時を遡れば、おそらくはその事情の一端を解明することも可能であろう。
しかし、ここで史実のみに囚われて、薔薇本来の「あやしさ」を看過するようなことがあってはならない。
すなわち、象徴としての薔薇が絡んだ血なまぐさい事件の積み重ねによって、主に中世ヨーロッパ以降に印象付けられた“結果”としての「怪しさ」とはまた別の、この花が本能的に有している、史実の“要因”たり得る「妖しさ」にも鋭敏に感応すべきであろう。
件の作家も、たしかにそうであった。


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絢爛と咲くその花を前に、中井の意識は地上にはない。
著書『薔薇幻視』には、こうある。
「薔薇はなお地表に美しいけれども、その暗い根の思考は、あるいは人間の思いも及ばぬ凶悪さを秘めているかも知れない。かつて満開の桜の下に屍体が埋められていたように、透視の能力さえあれば薔薇の樹の下にもみごとな魑魅魍魎のうごめいていることが知られるだろう。それなればこそ薔薇はこれほど美しいのだから。」

ここで私は、シュルレアリスムの画家、ゾンネンシュターンの言葉を思い出すのである。
「月の花々は陰惨な大地に、いまわしい汚物の上に、絢爛と咲く(※3)」
構図上のアナロジーもさることながら、注目すべきは、月と薔薇のそれである。
月[luna]は、言うまでもなく「精神に異常をきたした者、狂人」を指すルナティック[lunatic]の語源であり、西洋では、かのカリギュラ帝の時代より満月にまつわる怪奇伝説や猟奇的事件には事欠かない。
聖なる陽の光をその身に受けてなお、妖しい光を放つ月の狂気…
地中にうごめく魑魅魍魎の妖気を吸い上げて咲く薔薇に中井が見た狂気と、なんの違いがあろうか。


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さて、丘の上の薔薇園に話を戻そう。
残念ながら、異国情緒を醸すためこの手の施設にありがちな、陳腐な石柱や女神像こそ興醒めではあったものの、多くの人々が惜しみなく愛情を注ぎ、丁寧に手入れを施された花壇そのものは見事である。
甘美な芳香に誘われ、色とりどりの花壇を巡るうちに覚えた目眩くような心地は、なにも初夏を思わせる陽気のせいばかりではなかったであろう。


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しかし、それでもなお…

春先に一つ二つとほころびかけた梅を愛で、時を盛りに咲く桜にも刹那の無常を感じ、蔭なるかすみ草のつつましさに美徳を見る日本人の民族性ゆえであろうか、かように煌びやかな薔薇の花々は、私にはいささか眩しすぎる。
さりとて、中井の“根の思考”の境地には、むろん一朝一夕に達するべくもない。
詮ずるところ、澁澤龍彦の述べるがごとく、「むしろ日本あるいは東洋に目を転じて、何のシンボリズムにも毒されていない、野薔薇や庚申薔薇の単純さを愛するに如くはないような気もしてくる(※4)」のであった。

生田緑地 ばら苑
http://www.ikuta-rose.jp/index.html


〔参考〕
※1 市川市立図書館HP 「市川の文学」DBより
http://opac.city.ichikawa.chiba.jp/cgi/search510b.cgi?&=&bunk=3&FF=863
※2 原作:江戸川乱歩「パノラマ島奇談」 / 作画:高階良子
※3 澁澤龍彦「幻想の画廊から」より
※4 「フローラ逍遥」より


幻想博物館 新装版 (講談社文庫 な 3-9 とらんぷ譚 1)

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  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/12/15
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フローラ逍遙 (平凡社ライブラリー)

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  • 作者: 澁澤 龍彦
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1996/10
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[晴れ]

震災後雑感 [Others]

「余震」
減少傾向にあるとはいえ、相変わらずの余震。
遠く離れた東京でもこうなのだから、
被災地での恐怖、不安は如何ばかりか…
物理的な揺れだけに止まらず、
精神的な動揺も続く。

「原発事故」
我々の豊かな暮らしが、
とんでもないリスクと引き換えに成り立っていた事実を、
まざまざと見せ付けられている。
人智で制御しきれぬ核エネルギーの脅威。
原発は、やはり現代の “バベルの塔” だったのか。

先だっての水蒸気爆発以来、
スカイブルーに粧された化けの皮が剥がれ、
獰猛な本性を晒すケモノ。
その姿には、己の卑しく弱い心が重なる。
我々とて、そのケモノの危険性は承知していたはず。
その気になれば情報はいくらでも得られる環境にあったにも拘らず、
そうはして来なかった。
エネルギー的に何ひとつ不自由のない日々の暮らしに呆け、
根本のリスクから、いつの間にか目を背けていた。
希薄化する当事者意識。
―無作為の罪。

政府は “国策” の名の下に原子力エネルギー行政を推し進め、
電力会社は半ば独占的な営業権を与えられてきた。
「安心」「安全」「夢」 を標榜してきた彼らに、
より重い責任が無いはずはない。
―作為の罪。

事故対応の検証が後々必要なのは言うまでもないが、
今現在、最前線で身体を張っているのもまた、
公務員と電力会社の職員である。
今はただ、彼らの勇気ある行動に敬意を表し、
さらなる犠牲者が出ないことを祈ろう。



「想定外」
最近、よく目に、耳にする言葉。
しかし、裏を返せば、想定が甘かったというだけのこと。
無過失責任云々を持ち出すまでもなく、
免罪符にはなり得ない。

「サクラサク」
今週、東京では桜の満開が宣言された。
いつもなら軽く聞き流してしまうニュースも、今年は違う。

“希望” に飢えていたことに気付く。
鬱々として過ごす毎日、
明日を感じさせるニュースに励まされ、顔を上げる。

被災地の方々にも、
いつかこの日が訪れんことを…


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[晴れ]

初めにおこないありき! [Others]

※ 震災で亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。
  また、被災された全ての皆様にお見舞い申し上げます。

今日の大きな悲しみを銘記すべく、
また、未だ揺れの収まらぬ心の置き所を探すべく
このページを開いてみたものの、
時々刻々明らかになる深刻な現実を前に、
いったい何を記せばいいのだろう。

こう書いてある。 「初めにことばありき!」
こゝでわしはもうつかえる!
だれかわしを助けて先へ進ませてくれないか。
わしはことばというものをそう高く値ぶみすることはできない。
別に訳さなくてはならない。
こう書いてある。 「初めに意味ありき!」
ペンが先走りせぬように
第一行をよく考えよ!
一切を作りだすものは意味だろうか。
こう書いてあるべきだ。 「初めに力ありき!」
しかしこう書きつけているうちに、もう
これでは済まされないと警告するものがある。
霊の助けだ! 不意に思いついて
安んじてこう書く。 「初めにおこないありき!」         (※1)

もちろん、私は偉大な老哲学者の足元どころか、
‘影元’ にも及ばない。
ファウストでもないので、霊の助けも無い。
そもそも、ブログごときに引っ張り出す件(くだり)ではない。

しかし、皆、迷っている。
自然の、あまりの猛威に動揺している。

自分は、何をすべきか…
いったい、何ができるのか…

頼みとするところは、先人の智恵。
励みとするところは、積み重ねて来た歴史。

哲学者は言う。

誠実に君の時間を利用せよ!
何かを理解しようと思ったら、遠くを探すな。          (※2)

義務の重荷からわれわれを解放することのできるのは、
良心的な実行だけである。                    (※3)

すべきことなど考える前に、動け!
できることから、やれ!

哲学者は、こうも言っている。

人間だけが不可能なことをなし得る。            (※4)

あるいは “絶対的なもの” に対する逆説的テーゼか。
ならば、いっそ今は心強い。

阪神淡路大震災からの逞しい復興を励みに、
まずは、被災地の安寧を心より願う。


      ※1 「ファウスト」 から
         (ファウストが聖書のヨハネ伝福音書を訳すシーン)
      ※2 「格言的」 から
      ※3 「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」 から
      ※4 「神性」


ゲーテ格言集 (新潮文庫)

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

  • 作者: ゲーテ
  • 編訳: 高橋健二

[晴れ]
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鎌倉詣 [Others]

よく晴れた休日。
ふと思い立って、鎌倉へ出掛けることにした。
そういえば、今年は初詣も済ませていない。
鶴岡八幡宮にも、足を伸ばそうか…

鎌倉という地には、特別な思い入れがある。
このブログでも何度か触れた作家、
澁澤龍彦ゆかりの地である。

今、氏は北鎌倉の浄智寺に眠る。
墓前に供えるための白い薔薇を一輪、
途中の花屋で買った。
花言葉は 「尊敬」。
あながち悪いセンスではないと、自負している。


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浄智寺を訪れるのは初めてだが、
趣きのある古刹である。

事前の準備が奏功し、
お墓は意外と早く見つけることができた。
追悼記事の写真等で見覚えのある墓姿ではあったが、
実際に目の前にして、神経がうち震える。
突訪の非礼を詫びながら、敷地の落ち葉を拾い、
お参りをさせていただいた。

ご存命であれば、
決してお近づきになることなど叶わなかった氏を、
このような状況になって初めて
少しだけ近くに感じられるというのも、
皮肉な話である。


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[晴れ]
タグ:澁澤龍彦

銀杏並木 [Others]

先週末のことになるが、久しぶりに母校を訪ねてみた。
この時期は、キャンパスの銀杏並木が美しい。


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メディアに度々取り上げられる神宮外苑などには及ばないものの、都心のキャンパスとしては、なかなかに見事であろう。
当時、何の感慨もなく4回ものシーズンをやり過ごしてしまったのが、今になって悔やまれる。

近くのベンチに腰を下ろし、文庫本の、栞が挟まれたページを開く。
黄金色の天蓋から漏れる柔らかい光の中で、ひとしきり読書に耽る。


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土曜日にしては多くの人が、キャンパスの大通りを行き交っている。
ただ、足を止めて黄葉を見上げるのは、たまたま立ち寄ったと思われるご婦人一行や家族連ればかりで、学生と思しき連中は、顔も上げずに足早に通り過ぎる。

そうそう、毎日通うガッコーの銀杏の色が変わっただけのことに、なんの興味も無いんだよなぁ…

在りし日の自分達を見ているようで、ちょっと可笑しくなる。
同時に、この空間が“そのまま”にあるのが嬉しい。

一服しようと、ポケットから煙草を取り出してふと気付く。
ベンチの脇に設えてあったはずの灰皿が、無い。
辺りを見回すと、少し離れた校舎の陰に、ひっそりと「喫煙エリア」の文字が…

ま、すべてが“そのまま”という訳にはいかないようである。[ふらふら]

[晴れ]

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