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館長:庵野秀明 「特撮博物館」 2 [ART]

《 特殊美術係倉庫 》
東宝撮影所内にあった美術倉庫の一部が再現されている。
戦車や戦闘機などの“お宝”が雑然と―とはいえ、そこは展示に耐えられる程度に―並ぶ倉庫内には、心なしかカビ臭なども漂っているような…
たかが倉庫と言うなかれ、世の男子はこんな薄汚れた“アジト”的空間にめっぽう弱いのである。


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                   (本展パンフレットより)

《 特撮の父・円谷英二 》
言うまでもなく、特撮史に燦然と輝く巨星である。
お気に入りのトレモントハットを被った氏のパネルが、愛機NCミッチェルと共に博物展を見守っている。
単に設営上の都合ではあろうが、入口あたりに仰々しく設えられるよりは、《特美倉庫》から《技》なるエリアへと続くこの一角の方が居心地が良さそうである。

《 技 》
特美スタッフのデザイン画や造型用の図面、模型などが並ぶ。
とりわけ歴代の東宝造型師、つまりは歴代ゴジラの意匠を担ってきた造型師たちの仕事は印象的であった。
熱い思いが込められた技が連綿と受け継がれる様は、まさに職人の系譜である。
彼らが産み、代々手塩に掛けた「ゴジラ」は、今や「GODZILLA」として世界中の人々に愛されるまでに成長を遂げたのである。

《 研究 》
このエリアでは『巨神兵 東京に現わる』に関する技術解説のほか、「強遠近法」や「オプチカル合成」といった特撮技法が紹介されている。
この博物館が大人を子供へと回帰させるのは前稿に述べた通りだが、片や子供たちは、これら制作の裏側を垣間見ることにより、少しだけ大人になるのかもしれない。

《 ミニチュアステージ 》
これまでの特撮作品を映像で紹介する《感謝》と題されたエリアを抜けると、吹き抜けの開放的なスペースに、数十メートルにも及ぶ長蛇の列があった。
それもそのはず、この博物館唯一の撮影可能エリアである。


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精巧に再現された都心のビル街に、カメラや携帯を手にした“巨人”たちが足を踏み入れて行く。
東京タワーの周辺はすでに何モノかによって壊されており、幸いなことに我々は破壊者の汚名を着せられることなく、スクリーンの中でしかお目にかかれないアングルでの撮影を堪能することができた。


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さて、とうとう出口手前の特設ショップまで来てしまった。
ついさっきまで童心地に仰ぎ見ていたヒーローや怪獣たちの分身が、整然と棚に並べられ、あるいは壁に吊るされ、値札が付けられている。
そんな商業的側面も、プロダクションを維持し、優れた作品を世に送り出すためと納得尽くであったはずだが、さすがにこのタイミングで目にすると、幾らかの動揺は禁じ得ない。

「それは、夢の終わりよ」(※)
青い髪の少女の声を聞いた気がしたのは、空耳であったか…

                         (「別稿」につづく)

特撮博物館H.P.
http://www.ntv.co.jp/tokusatsu/

※ 「新世紀エヴァンゲリオン」劇場版 『Air/まごころを、君に』 より

[雨]

館長:庵野秀明 「特撮博物館」 1 [ART]

入口の仄暗いトンネルを抜けると、夢の国であった―
このトンネルはタイムトンネルか、はたまた‘逆’ガリバートンネルか…
いずれにせよ会場の明かりの下では、大人は子供に、さらに巨人へと変貌を遂げていたのである。

いきなり現れた宝の山を前に、でかい態(なり)の子供たちは、どこから手を付けていいのか分からず立ちすくむ。
[←順路]の表示が無ければ、そんな連中が大渋滞を起こしていたに違いない。

では、私も順路に従って、各エリアをご紹介することにしよう。

《 人造 原点Ⅰ 》
「原点」の名の通り、特撮黎明期の資料が並ぶ。
そのほとんどは私が物心つく前の作品に関するものであり、馴染みのあるものは多くはなかったが、それでも小松崎茂氏のイラストなどは、プラモデルのパッケージや本の挿絵でよく目にしていたもので、懐かしい記憶が蘇ってくる。
また、井上泰幸氏デザインの宇宙防衛艦「轟天」や成田亨氏デザインの「マイティジャック号」などは、当時のピュアな正義感と戦闘本能を思い起こさせる魅力的なフォルムであった。
その昔、つんと澄ました近所の女の子らが、安っぽいビーズやアクセサリーで己を着飾ることばかりに夢中になっていた傍らで、僕ら男子は来たるべき日に備え、兵器運用や防衛態勢のシミュレーションに日々余念がなかったのである!


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《 超人 原点Ⅱ 》
私にとっては、このエリアこそがまさに“原点”である。
当然のことながら思い入れも強く、他のエリア紹介とのバランスを欠くことになるのは目に見えているので、後日あらためてご紹介することとする。

《 力 》
おもに平成『ガメラ』シリーズと『日本沈没』の撮影に使われたミニチュアが並ぶ。
重要シーンの舞台となるランドマーク的建造物が丁寧に作られるのは分かるとしても、セットに紛れてしまいそうな電柱や街灯まで精緻に作り込まれているのには驚嘆させられた。


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願わくば『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』で決戦の舞台となった京都駅なぞ拝みたいところであるが、むろん叶うはずもない。
あの日、あの壮絶な戦いにより、破壊されてしまったのだから…

壊されるためにセットを作る―
特美スタッフの仕事の尊厳は、あるいはこの一点に極まるのかもしれない。

《 映画 「巨神兵 東京に現わる」 》
この博物館のために一本の短編映画が制作された。
『風の谷のナウシカ』に登場した巨神兵が突如として東京に現れるという、ジブリファンならずとも大いに興味をそそられるストーリーである。
ちなみに、「ナウシカ」において巨神兵が王蟲(オーム)を薙ぎ払うシーンの原画を担当したのが、ほかでもない、若き日の庵野秀明氏だったのである。


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リアルな造型を得て蘇った巨神兵はもちろんのこと、ミニチュアで精巧に再現された町並から破壊シーンの独創的なギミックに至るまで、スクリーンに映し出されるもの全てが主役である。
したがって、映画の鑑賞法としては邪道かもしれぬが、作品に感情移入して物語の機微を味わうというのではなく、個々のシーンに登場する造型物や視覚効果を愛でながら、歴代の特撮マンが歩んで来たおよそ穏やかならざる道に想いを馳せるというような鑑賞の仕方も、この作品に限っては許されるのではないだろうか。

神社の鳥居越しに仰ぎ見た巨神兵から放たれたプロトンビームは町を焼き、その炎は東京タワーと増上寺を包み込む。火の海と化した大地を悠然と歩く巨神兵の足元には、焼け落ちた教会のシルエットが浮かび上がる。
卓抜たる技術力とチームワークで仕上げられた贅沢な短編映画は、一義的には樋口真嗣監督以下、特撮スタッフの仕事の成果に他ならないが、かように思想と文明の象徴が滅び行く様がきっちりと描かれているあたり、“庵野テイスト”も健在である。

 <おまけ>
宮﨑駿監督の庵野氏に対する落書き(「ナウシカ」制作当時)
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左メモ 「カット出せ / はやく!! いそげ おそい / 巨神兵 / ひであき!! / 仕事しろ 仕事」 
右メモ 「ねすぎる!! 今にゴキにくわれるぞ / はやくカットあげろ」

《 軌跡 》
『巨神兵 東京に現わる』の画コンテや造形物などが並ぶ。
中でもメイキング映像は、これを観ずして『巨神兵―』を語るなかれ、というほどの代物であった。
爆薬とエアキャノンを用いた破壊シーン、あるいはビルの倒壊や融解シーンなどの技術的な解説はたいへん興味深く、先達が培ってきた技術に若い知恵と工夫が加わって新たな手法が生み出されるプロセスには胸が熱くなった。
さらに、映画が完成するまでを制作日誌的に記録した映像からも、物作りの苦労と、それにも勝る喜びが伝わってくる。
苦悶の表情で何度もカットを繰り返した後、ようやく弾けた樋口監督の笑顔は、まごうことなき少年のそれであった。

                               (つづく)

特撮博物館H.P.
http://www.ntv.co.jp/tokusatsu/

※ 画像については本展パンフレットより低画質にて転載

[晴れ]

バラとナカイと、時々シブサワ… [Others]

川崎市の多摩丘陵にある「生田緑地 ばら苑」には、およそ533種、4700株もの薔薇が咲き乱れる。


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中井英夫の代表作『虚無への供物』には、かつて世田谷に実在した薔薇園「三宿ガーデン」についての記述がある。
また、『幻想博物館』所収の短編等に登場する、広大な薔薇園を持つ病院「流薔園(るそうえん)」は、千葉県市川市に実在する「式場病院」がそのモデルであるらしい(※1)。
私事で恐縮だが、実は三宿も市川も私には大変縁のある土地であり、氏の作品に触れるたび、薔薇園なるものには心惹かれていたのであった。

それにしても薔薇とは不思議な花で、その華麗で艶やかな容姿とは裏腹に、争いや死、あるいは秘密結社などと、とかく暗く怪しげなイメージが付きまとう。
私の経験上も、おそらく物心ついて初めて認識した薔薇のモティーフは、時代に翻弄される若者たちの愛と死を描いた『ベルサイユのばら』であったし、また、ほぼ時を同じくして目にしたコミック『血とばらの悪魔(※2)』も、およそ「KCなかよし」レーベルとは思われぬ奇怪なストーリーに、少なからず衝撃を受けたのであった。
さらに、『薔薇族』などという雑誌に象徴される深淵なる世界に至っては、…言わずもがなである。


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このように偏ったイメージが形成されるに至った理由は、むろん我々人間が薔薇と関わってきた歴史とも無縁ではなく、ヘレニズムのあたりまで時を遡れば、おそらくはその事情の一端を解明することも可能であろう。
しかし、ここで史実のみに囚われて、薔薇本来の「あやしさ」を看過するようなことがあってはならない。
すなわち、象徴としての薔薇が絡んだ血なまぐさい事件の積み重ねによって、主に中世ヨーロッパ以降に印象付けられた“結果”としての「怪しさ」とはまた別の、この花が本能的に有している、史実の“要因”たり得る「妖しさ」にも鋭敏に感応すべきであろう。
件の作家も、たしかにそうであった。


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絢爛と咲くその花を前に、中井の意識は地上にはない。
著書『薔薇幻視』には、こうある。
「薔薇はなお地表に美しいけれども、その暗い根の思考は、あるいは人間の思いも及ばぬ凶悪さを秘めているかも知れない。かつて満開の桜の下に屍体が埋められていたように、透視の能力さえあれば薔薇の樹の下にもみごとな魑魅魍魎のうごめいていることが知られるだろう。それなればこそ薔薇はこれほど美しいのだから。」

ここで私は、シュルレアリスムの画家、ゾンネンシュターンの言葉を思い出すのである。
「月の花々は陰惨な大地に、いまわしい汚物の上に、絢爛と咲く(※3)」
構図上のアナロジーもさることながら、注目すべきは、月と薔薇のそれである。
月[luna]は、言うまでもなく「精神に異常をきたした者、狂人」を指すルナティック[lunatic]の語源であり、西洋では、かのカリギュラ帝の時代より満月にまつわる怪奇伝説や猟奇的事件には事欠かない。
聖なる陽の光をその身に受けてなお、妖しい光を放つ月の狂気…
地中にうごめく魑魅魍魎の妖気を吸い上げて咲く薔薇に中井が見た狂気と、なんの違いがあろうか。


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さて、丘の上の薔薇園に話を戻そう。
残念ながら、異国情緒を醸すためこの手の施設にありがちな、陳腐な石柱や女神像こそ興醒めではあったものの、多くの人々が惜しみなく愛情を注ぎ、丁寧に手入れを施された花壇そのものは見事である。
甘美な芳香に誘われ、色とりどりの花壇を巡るうちに覚えた目眩くような心地は、なにも初夏を思わせる陽気のせいばかりではなかったであろう。


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しかし、それでもなお…

春先に一つ二つとほころびかけた梅を愛で、時を盛りに咲く桜にも刹那の無常を感じ、蔭なるかすみ草のつつましさに美徳を見る日本人の民族性ゆえであろうか、かように煌びやかな薔薇の花々は、私にはいささか眩しすぎる。
さりとて、中井の“根の思考”の境地には、むろん一朝一夕に達するべくもない。
詮ずるところ、澁澤龍彦の述べるがごとく、「むしろ日本あるいは東洋に目を転じて、何のシンボリズムにも毒されていない、野薔薇や庚申薔薇の単純さを愛するに如くはないような気もしてくる(※4)」のであった。

生田緑地 ばら苑
http://www.ikuta-rose.jp/index.html


〔参考〕
※1 市川市立図書館HP 「市川の文学」DBより
http://opac.city.ichikawa.chiba.jp/cgi/search510b.cgi?&=&bunk=3&FF=863
※2 原作:江戸川乱歩「パノラマ島奇談」 / 作画:高階良子
※3 澁澤龍彦「幻想の画廊から」より
※4 「フローラ逍遥」より


幻想博物館 新装版 (講談社文庫 な 3-9 とらんぷ譚 1)

幻想博物館 新装版 (講談社文庫 な 3-9 とらんぷ譚 1)

  • 作者: 中井 英夫
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/12/15
  • メディア: 文庫

フローラ逍遙 (平凡社ライブラリー)

フローラ逍遙 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: 澁澤 龍彦
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1996/10
  • メディア: 新書

[晴れ]

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾×村上春樹 4 [BOOK]

※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。

本書は概ね六つの章から成っているが、うち一章は、その怪しさ(ばかりではないが…)が人々を魅了して止まないマーラーについて割かれている。
そも、書店で何気なく手に取った時点でまったく買うつもりなどなかった分厚い新刊書が、ほんの数分後に帰りの荷物に加わっていた一番の理由がここにあった。

まずもって収穫だったのは、実はマーラーは小澤氏のレパートリーとしてポピュラーであり、また、氏が総監督を務めるサイトウ・キネン・オーケストラが、我が国オケではマーラー演奏の先駆けであるという事実を知ることができたことである。
加えて、氏のマーラーに対する姿勢にも、新鮮な驚きがあった。


マーラー:交響曲第1番 「巨人」 他 (SHM-CD)

マーラー:交響曲第1番 「巨人」 他 (SHM-CD)

  • アーティスト:小澤征爾,サイトウ・キネン・オーケストラ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2009/07/15
  • メディア: CD


マーラーについては、ユダヤ人というその出自と、時に“分裂気質”とか“カオス”などとも評される独特の作風から、村上氏も指摘するように「マーラーその人の生涯とか、世界観とか、時代背景とか、世紀末的な省察とか」といった側面からのアプローチを試みるのが、楽曲解釈論としては一般的であろう。
しかし、この点について小澤氏に質すと、「僕はそんなには考えないかもしれない」との答えが返ってくるのであった。

誰もマーラーたり得ぬ以上、聴く側としては民族性や境遇の近い者を以って“翻訳者”の任を負わそうと考えるのが自然であり、同じくユダヤの系譜を辿るワルターやバーンスタインらの人気が高いのは至極もっともである。
音楽評論家である宇野功芳氏の「前者は弟子として、後者は使徒として、彼の音楽に激しく共感した(※)」との言には説得力があったし、事実、彼等の演奏には名状し難い迫力がある。

しかし、小澤氏は言う。
「僕はね、音楽を勉強するときには、楽譜に相当深く集中します。だからそのぶん、というか、ほかのことってあまり考えないんだ。(中略)自分と音楽とのあいだにあるものだけを頼るというか…」
もちろん、本来あるべき一つの姿勢ではあると思うが、バーンスタインがマーラーに取り組むプロセスをアシスタントとして共有し、そのマーラーへの情熱を身を以って感受して来た小澤氏が採る方法としては、ちょっと意外な気がしないでもない。
あるいは、だからこその帰結と捉えるべきであろうか…


マーラー:交響曲第1番「巨人」

マーラー:交響曲第1番「巨人」

  • アーティスト: バーンスタイン(レナード),ニューヨーク・フィルハーモニック
  • 出版社/メーカー: ソニーレコード
  • 発売日: 2000/11/01
  • メディア: CD


マーラーの作品は、楽譜の指示が細かい―すなわち演奏者の自由に任されている余地が少ない―にも拘らず、その実、演奏者によって非常に多彩な表情を見せるというパラドキシカルな側面を有する。
村上氏はこれを「意識的情報が溢れている分、選択肢がより潜在化していく」と表現し、実はこの特異性が、マーラーと出自を異にする演奏家にとって幸いしているのではないかと考察している。
私なりに解釈すると、つまり、スコア上の指示が事細かであることにより民族性などのアドバンテージが抑制される一方で、いわゆる文学で言うところの“行間”での解釈や表現はむしろ活性化し、ここに多様な価値観の介入する余地が残されている、ということのようである。
前稿のバックハウスにせよ、今回のワルター、バーンスタインにせよ、どうも嗜好に保守的な嫌いのある私にとってはたいへん興味深い考察であり、結果的にマーラーの新たな楽しみ方を教示される形となった。


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マーラーについてはまだまだ書き足りないところだが、それでは本稿のテーマから外れてしまう。今回はこの辺りにして、本書を読み通しての素朴な感想を…
いずれも世界をフィールドに活躍する大物同士の、クラシックに関する少々マニアックな対談である。時折り、小澤氏の“感性”と村上氏の“論理”が交錯する場面も見られるが、その周囲には一貫して長閑な空気が漂っている。
これは、本書が発行されるに至った経緯が、ビッグネーム二人による対談企画まずありきだったのではなく、両氏の日頃の付き合いの中から自然発生的に生まれたものであったということが大きい。
互いに対する敬意と共に親密さも感じられ、読んでいて心地良い一冊であった。

小澤 (果物を食べる)「うん、これはおいしいね。マンゴ?」
村上 「パパイヤです」
                                (おわり)

「新版 クラシックCDの名盤」(宇野功芳ほか共著)より


小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤征爾さんと、音楽について話をする

  • 作者: 小澤征爾・村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11/30
  • メディア: 単行本

<追記>
先日、小澤氏の体調不良に伴う一年間の活動休止が発表された。ご快癒を切に祈るものである。

[雨]

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾×村上春樹 3 [CLASSIC]

※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。

ところで、楽譜を読むことへの憧憬を、村上氏は「翻訳ではなく原書で文学を読むことのできる楽しさ、自由さと、少しは似ているかもしれない」と表現している。
数々の翻訳を手懸ける氏ならではの、的を射た比喩といえよう。
であるならば、私を含め楽譜の解釈が敵わぬ多くのクラシックファンは、それぞれに“良き翻訳者”と巡り会うことが必要となる。
氏が言うところの「ややこしい暗号のような、過去からのメッセージ」を読み解き、原作者たる作曲家の思想や情念の一端を、凡庸ならざる表現力をもって我々に提示してくれる翻訳者こそが、指揮者であり、ソリストであり、オーケストラなのである。


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実は私の手元には、先に紹介したディスク(前稿参照)の他に、バックハウスによる『ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集』というものがある。
普段は楽曲ごとに演奏者を選っている私が全集盤を所有するに至ったのも、私にとってはバックハウスこそが、ベートーヴェンのピアノ楽曲における“良き翻訳者”であるからに他ならない。
と言っても、むろん私に村上氏のごとき優れた“素養”の裏付けがあるはずもなく、その傑出したテクニックに対する高い評価と、ベートーヴェン直系の弟子という“血統”への絶対的な信頼感という、極めて明快かつ保守的な理由によるものである。
クラシックに傾倒して間もなく、『ベートーヴェン 三大ピアノソナタ集』を介して出逢ったバックハウスは、いわば雛鳥にあっての“刷り込み”のごとくに私の価値観を支配し、ベートーヴェンのピアノ楽曲におけるスタンダードとなったのであった。


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さて、ここまで書いた以上、バックハウスによる3番コンチェルトについても触れぬわけにはいくまい。
序奏部、まずはウィーン・フィルの「ドイツ的」な演奏に誘なわれ、我々は緑濃き深山(みやま)へと分け入る。
バックハウスは、その先に待つ。
齢七十四とは思えぬその瑞々しいタッチには、およそ“老練”などという言葉は似合わず、ことに第1楽章のカデンツァでは、山間のせせらぎを時折り若魚が跳ねるがごとき煌めきを放つ。
しかしその実、楽曲を通したテンポはイッセルシュテットにより巧みにコントロールされており、驚くことに、躍動感溢れる第1楽章は先のグールド(前稿参照)より遅く、情感豊けく弾き上げる第2楽章はグールドよりも速い。
つまり、ゼルキンとバーンスタインによる演奏とは最も離れたところに位置しており、ことテンポに関する限り、やはりお二方の演奏は極端に過ぎると言わざるを得ない。
ただし、あくまでも一バックハウスファンの感想であり、“聴きめ”には個人差があるので、ご了承のほど…

                                (つづく)

ベートーヴェン : ピアノ協奏曲全集 (新リマスタリング)

ベートーヴェン : ピアノ協奏曲全集 (新リマスタリング)

  • アーティスト: バックハウス(ウィルヘルム),シュミット=イッセルシュテット(ハンス),ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ポリドール
  • 発売日: 1999/04/22
  • メディア: CD


小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤征爾さんと、音楽について話をする

  • 作者: 小澤征爾・村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11/30
  • メディア: 単行本

[晴れ]

[更新履歴]
'12.11 表現の一部修正

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾×村上春樹 2 [CLASSIC]

※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。

今回と次回の記事は、その内容から「CLASSIC」カテでの分類となっていることを、まずお断りしておく。

第1章では、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」について、6枚ものディスク(別掲)を聴き比べている。
かつての村上少年にクラシック音楽への扉を開かせたという、たいへん意義深い楽曲である。
私の手元にも何枚かあったはずなので、早速探してみた。
本書を読んだ印象では、グールド/バーンスタイン盤と内田光子/ザンデルリンク盤に興味を引かれていたのだが、見付かったのはグールド/カラヤン盤にゼルキン/バーンスタイン盤。
うーん、惜しい![ふらふら]

何はさておき、まずはグールド/カラヤン盤から聴く。
前稿で触れたように、村上氏はここでグールドとベルリン・フィルとの不調和を指摘しており、これには小澤氏も同調している。
さほどの注意は払わなかったとはいえ、これまで聴いてきた限りでは、違和感を持ったことなど一度としてなかった。
今、あらためて聴いてみても、特に不自然さは感じない。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番&シベリウス:交響曲第5番

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番&シベリウス:交響曲第5番

  • アーティスト: カラヤン(ヘルベルト・フォン),グールド(グレン),ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2008/05/21
  • メディア: CD


第1楽章ばかりを何回か繰り返し、後に紹介する他の演奏とも聴き比べてようやく若干の違いを見出すに至ったものの、私ごときの“素養”では、全く以ってこれを不調和とは認識できない。
ソロとオーケストラとの絡みの問題なので一概には言えないが、アーティキュレーションに多少“やんちゃ”なアレンジを加えるソリストとの共演などでは、間々あることではないのか。
いや、むしろあのカラヤンとベルリン・フィルを向こうに回し地を貫いたというのであれば、小澤氏が「自由な音楽」と評するこの若きピアニストの心意気や良しとの評価があって然るべきとも思うのだが…
そういえば、グールドはバーンスタインとブラームスを共演するにあたり、自身のゆっくりしたテンポでの演奏を譲らず、結果、本番前にバーンスタインが聴衆に向かってエクスキューズするに至ったというエピソードが紹介されていた。
グールドの、グールドたる所以であろう。

ふぅ…
しかし一曲聴くのに、これだけ集中力を要するとは…[がく~(落胆した顔)]
窓を開け、部屋の空気を入れ替える。
オーバーヒート寸前の頭をしばらく冷気に晒し、気分も新たにゼルキン/バーンスタイン盤に取り掛かる。
が、これがまた曲者であった。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番+第5番「皇帝」

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番+第5番「皇帝」

  • アーティスト: ゼルキン(ルドルフ),バーンスタイン(レナード),ニューヨーク・フィルハーモニック
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2001/12/19
  • メディア: CD


のっけから小澤氏を「ええええ」と驚愕させるほどの速いテンポで、第1楽章は幕を開ける。このオーケストラの勢いは、そのままゼルキンのピアノに引き継がれる。
単純に第1楽章の演奏時間を比べてみても、先程のグールド盤が16'15" であるのに対し、ゼルキン盤は15'32"と40秒ほど短い。
その理由については、当時流行っていた古楽器演奏の影響があるのではないかと小澤氏は推測する。
そして、このようなスタイルを以って「非ドイツ的」とも評しており、アメリカのオーケストラ(ここではニューヨーク・フィル)をベルリン・フィルやウィーン・フィルと対比させていて興味深い。
しかし、(本書では取り上げられていないが)実は第2楽章になると、グールド盤が9'25"にゼルキン盤10'54"と、その演奏時間は大きく逆転する。
本来の指示が、第1楽章はAllegro con brio(活気をもって、速く)、第2楽章がLargo(遅く、ゆったりと)であることを考えれば、ゼルキン盤の方がよりスコアに忠実と言えなくもないが、ただ、こうなると第1楽章のスピードは流行りのスタイルというだけでは説明がつかない。
ゼルキンおよびバーンスタインの、積極的な意図を感じるところである。
                                (つづく)

※ 本書で試聴している「ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番」
・グールド/カラヤン盤
・グールド/バーンスタイン盤
・ゼルキン/バーンスタイン盤
・インマゼール/ヴァイル盤
・ゼルキン/小澤征爾盤
・内田光子/ザンデルリンク盤


小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤征爾さんと、音楽について話をする

  • 作者: 小澤征爾・村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11/30
  • メディア: 単行本

[曇り]

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾×村上春樹 1 [BOOK]

※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。

愛書家の方々からは邪道とお叱りを受けるかも知れないが、新刊の小説やエッセイを買う場合、余程のことが無い限り私は文庫版になるのを待つ。
元より内容は一緒なわけであるし、適度なインターバルを置くことによって、一時のブームに乗っただけの駄作を掴まされずに済む。
もちろん、「すぐにでも読みたい!」とのモチベーションがあれば、話は別である。
この本は、そんな思いから、久しぶりにハードカバーでの購入となった。

まず驚かされたのは、村上氏のクラシックリスナーとしての“素養”である。
「その昔ピアノを少し習っていた」以外は「ほぼまったくの素人」と自身が語るように、演奏者としてクラシックと接してきたわけではないので、例えばスコアの分析や解釈といったような実践的な事柄についての記述は、決して多くはない。
しかし、高校生の頃からレコードを集め始め、暇を見付けてはコンサートに足を運び、特に在欧中は「浴びるほど」クラシックを聴いた―というような経験は、氏のリスナーとしての感性や知見を培ったばかりではなく、実演奏の僅かな差異を聴き分けられるほどに、氏の音楽的な聴力をも鍛えていたようである。


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数回に渡る対談は、病気療養中の小澤氏の体調とスケジュールに最大限の配慮をした環境を、そのつど村上氏自らが調え、余人を交えずに行われた。
例えば村上氏の自宅でのインタビューは、こんな具合に進む。

まず、特定の楽曲についてのレコードやCDを何枚か聴く。
その中で村上氏が気になった箇所、例えばある演奏におけるソリストとオーケストラの微妙な呼吸のズレについて、小澤氏に質す。
すると、そのソリストの性格や指揮者との関係について、同じ状況を経験した者しか知りえない生々しい証言が、マエストロより飛び出す。
また、村上氏の興味がいくつかのオーケストラの特色に及ぶと、その常任指揮者の個性、時代的な流行やホームの聴衆の好み、さらにはホールの形状による音の違いに至るまで、マエストロの舌は一層滑らかになる。
ひたすらスコアと格闘したという修行時代の話などは、「しんどかった」と言いながらも、どこか楽しそうにマエストロは振り返る。
積み重ねられた研鑽の歴史と未だ冷めやらぬ音楽への情熱が、ここでは村上氏のタクトによって紡がれてゆく。

このような展開は、偏に小澤氏をして「聴き方が深い」と言わしめた村上氏の“素養”あったればこそである。
その鋭敏にして的確な指摘は、事実、私が別に読んだ音楽評論家の論評と比べても遜色なく、この点においては、両氏が企んだ「(レコード)マニアが読んで、なるべく面白くないようなものにしていきましょう」との当ては、見事に外れたと言うほかない。
                                (つづく)

小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤征爾さんと、音楽について話をする

  • 作者: 小澤征爾・村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11/30
  • メディア: 単行本

[晴れ]

東京百景 4 [SCENES of TOKYO]

大きな出来事のあった一年が終わり、
新たな年を迎えた。
相も変わらぬ“お上”の体たらくには絶望感すら覚えるが、
少しでもいい方向に向かうよう…
謹賀新年。

第四景 「湯島天神」

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学業成就・合格祈願の“メッカ”としての天神様。
その抜群の知名度に比べ、境内のなんとちんまりとしたことか。
ただ、さすがにこの時節、
祈祷所や授与所(売店)は盛況であった。

各々に、良き天命の下らんことを…


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※当方御用達の「やなか珈琲店」の湯島店を、偶然発見!(右下)
 既存の民家を再利用した店先に、コーヒーの深い香りが漂う。

[晴れ]
タグ:東京百景

「薬指の標本(映画)」と「ホテル・アイリス(小説)」 2 [MOVIE&DVD]

※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。

二人の大人は、それぞれのやり方で、彼女たちを思うままに、しかし丁寧に扱った。
母親の呪縛を振り払うかのように着衣を脱ぎ捨てたマリは、初めての感情に戸惑いながらも、老紳士の命ずるまま、その足元に跪く。
一方のイリスも、標本師が与えた深紅の革靴に諸足を預けて、冷たいタイルにその裸身を横たえた。
日常からの脱却―
少女から大人への脱皮―
要求の受け手としての存在意義―
傍目には従属を強いられているような特異な関係性も、決して彼女たちの厭うところではなかった。


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「履き心地がよくても、履きすぎはダメだ」
ある日、イリスに靴磨きの男が忠告する。
「さもないと、足を失うことになる。
足と靴の間にほとんどゆとりがない。
その靴が足を侵し始めてる証拠だ」
イリスは答える。
「自由になりたくないの」

頑なとも思えたそんなマリとイリスの心に波紋を立てたのは、やはりと言うべきか、若い男との出会いであった。
男たちを鏡に、二人はそれぞれに己の心と向かい合う。
やがて在るべき場所へと戻ったマリとイリスは、しかし精神的束縛を拠りどころとしていた以前の彼女たちではなかった。
二人は自らの意志で、新たな一歩を踏み出す決意をするのである。


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さて、ここからはあくまでも私見であるが、この二作品を見る限りにおいて、実は小川氏自身もフランス映画、ことにルイス・ブニュエルあたりの作品に何らかのインスピレーションを得ていたのではないだろうか。
ブニュエル作品について、かの澁澤龍彦は「とりわけサディズムとフェティシズムが、その映画的世界の本質的な構成要素をなしている」と説いている。(※)
今回取り上げた作品でも、例えば老紳士は、ときにマリの頬を打ち据え、あるいは髪を掴み、引き擦り回すことでその深い愛を伝えようとしているし、また、標本師が強要した革靴は、件の靴磨きの指摘のごとく、イリスから心の自由を奪う文字どおりの“足枷”となっている。
加えて、標本師がイリスに革靴を履かせながら陶酔する様などは、ブニュエルの『小間使の日記』に登場する靴フェティシストの老主人そのものではないか!
これら以外にも、無機質な実験器具の扱いや人肌を這う粘液の演出など、ブニュエル作品との共通点は少なからず見受けられるのである。

澁澤はまた、ブニュエル作品の世界観を「汎性欲主義的でしかも禁欲主義的」とも評している。(※)
おそらくはこのパラドックスが、前稿に情緒的に述べた“静謐なエロティシズム”の論理的な解釈であり、同時に、小川作品の世界観をより奥深く、より魅力的なものにしているに違いない。

※「ルイス・ブニュエルの汎性欲主義」より
 (『スクリーンの夢魔』 『澁澤龍彦 映画論集成』 収蔵)


☆薬指の標本 [DVD]

☆ホテル・アイリス (幻冬舎文庫)


澁澤龍彦映画論集成 (河出文庫 し 1-53)

澁澤龍彦映画論集成 (河出文庫 し 1-53)

  • 作者: 澁澤 龍彦
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2009/05/30
  • メディア: 文庫

小間使の日記 [DVD]

小間使の日記 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 東北新社
  • メディア: DVD

[晴れ]
[更新履歴]
'12.03 表現の一部修正

「薬指の標本(映画)」と「ホテル・アイリス(小説)」 1 [MOVIE&DVD]

※ 作品の内容に触れる記述があります。予めご了承ください。

今回、小川洋子の映像作品と文芸作品とをリンクさせたのに、特別な意味がある訳ではない。
自然な成り行き…である。

“小川洋子原作の小説を、フランス人監督が映画化!”
レンタルビデオ店で、『薬指の標本』という作品に添えられたこんなPOPを見たとき、私は少なからず興奮を覚えた。
「我が意を得たり!」だったのである。
というのも、何年か前に『ホテル・アイリス』を読んだ折り、私の頭の中には、その時点で印象付けられていた―おそらくは偏った―フランス映画のイメージが広がっていたのである。

いつにも増して暑かったその夏、少女マリが経験する秘め事にくっきりと陰影を付ける強い日差しは、友人を手にかけたトムを苛む『太陽がいっぱい』のそれであり、また、年老いた紳士のアブノーマルな要求に懸命に応えようとするマリの姿は、“肉体を脱ぐこと”を強いられながらも次第に画家に心酔してゆく『美しき諍い女』のマリアンヌと重なる。

ひとつ間違えば低俗との謗りを免れないエロティックなシーンも、繊細な心情描写と、小川作品の信奉者たる友人が強く主張する「美しい文章」とやらに浄化され、純文学の高みへと昇華する。
かような性格の作品を映像化するには、一部の例外はあるにせよ、耽美主義の香り漂う“静謐なエロティシズム”を得意とするフランス映画を措いてほかにないと確信していたのである。
『薬指の標本』は、その意味において期待を裏切らなかった。

事故により薬指の先端を失ったイリスの新たな仕事場は、町はずれの標本工房であった。
舞台からしてフェティッシュなエロティシズムを予感させるこの作品は、多分に『ホテル・アイリス』と世界観を共有している。

「アイリス」のマリ同様、イリスも孤独であった。
人付き合いが無いわけではないが、さりとて得意でもない。
自らが日常に埋没してしまっている虚しさを感じながらも、あえてまで現状に抗うこともしなかった。
そんな日々の中で、マリは老紳士と出会い、イリスは標本師と出会った。
                                 (つづく)

薬指の標本 SPECIAL EDITION [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ハピネット・ピクチャーズ
  • メディア: DVD

ホテル・アイリス (幻冬舎文庫)

ホテル・アイリス (幻冬舎文庫)

  • 作者: 小川 洋子
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 1998/08
  • メディア: 文庫

[晴れ]
タグ:映画

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